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『ぼくのメジャースプーン』~私なら彼にどんな呪いをかけるだろうか~



童話のような語り口ながら、その内容は残酷で鋭い。
各章のタイトルから「これはのみのピコ」を思い出した。同じように「~の~」からしりとりみたいに章が続いてゆくのがおもしろい。それがちゃんと内容にも沿っているのだから、きっと作者はこれがしたくて本編の構成を考えたのではないのだろうか?
小学四年生の「ぼく」は幼なじみのふみちゃんという大切な女の子がいる。彼女は目立つメガネをかけていて、地味だけど責任感が強くしっかりと自分をもっている子だ。
ふみちゃんがピアノの発表会で緊張のあまり弾けなくなってしまった時、ぼくがかけた言葉からぼくのお母さんがある特殊能力に気がつく。それは一族の中で持つ人と持たない人がいるんだって。言葉によって相手を縛る能力なんだって。力は安易に使ってはいけないと、ぼくは親戚の秋先生のところへ定期的に通い、力について教えてもらうことになった。
そんな時、ぼくの学校で飼育小屋のうさぎが殺されるという残酷な事件が起こる。しかもその時犯人とすれ違い、第一発見者となったのはふみちゃんだった。心を痛め学校に来られなくなってしまったふみちゃん。
犯人と一度だけ会えるという日に、ぼくは力を使うことを決めた。犯人に復讐したい気持ち、ふみちゃんに立ちなおってほしい気持ち。どんな言葉をかけたらいいか悩んで悩んで、ぼくはひとつのこたえをだした・・・・。
小学生が考えるには難しいテーマだと思う。
罪と罰。同じ相手には一度しか使えない能力。
「~しなさい。さもなくば~となるだろう」呪いをかける相手がその結果を選択するというジレンマ。
秋先生とぼくが能力についてくり返しくり返し検証する場面はとても哲学的で、自分だったらどうするだろうとつい考えてしまった。
一見万能そうに見える能力が、実は様々な条件に縛られているのがこの話をおもしろくしていると思う。
心を閉ざしてしまったふみちゃんを助けたい、でも自分はもうピアノの発表会でその力を使ってしまった。秋先生は力を使えるけれどそれを封印していてふみちゃんに使ってはくれない。
絶望的な気持ちになった主人公のぼくがそれでも必死にふみちゃんを助けようとする姿に心を打たれる。
同時にどうしようもない悪意というものが存在することが心底やるせなくなる。イライラしていたから、それだけの理由でうさぎを殺す。その人にとってとても大事なものが他人の悪意であっさりと消え去ってしまう。怖がるのはいつも善の側で、怖いものがない悪の側はいともたやすくその垣根を乗り越えてしまう。ギリギリと歯ぎしりしたくなるくらいなぜ?と問いかけたくなった。
犯人に復讐したい。でもそんな悪意の相手に何が復讐となり得るのか。
ずっと、主人公のぼくはどうするのだろう、犯人を許すのか許さないのかが気になりながら読んでいた。
もしかしたらこういう結論がでるんじゃないかと思いながら、でもかすかに感じていた違和感。結果私の予想とはまったく違っていていい意味で裏切られた。
やはりぼくは年の割にはずっと大人びていて、それが不憫だと思う。
でも、そんなぼくの必死な叫びは、たとえ能力を使わずともいつかふみちゃんに届く。大切な誰かの声は特殊な能力なんかなくても相手の心を動かすんだよと言ってあげたくなった。
ちなみにこの作者は登場人物を各作品で再登場させるのが好きなのだが、秋先生は『子どもたちは夜と遊ぶ』にぼくは『名前探しの放課後』に登場している。
順番は必ず『子どもたちは夜と遊ぶ』『ぼくのメジャースプーン』『名前探しの放課後』
ある作品で別の作品のネタバレになる内容が含まれているので、この順番がおすすめ。
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