いくつもの週末と本
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殺人犯はそこにいる~盲信された「科学」に隠蔽された事件~




「関東地方の地図を広げ、北部のある地点を中心に半径10キロほどの円を描いてみる~その小さなサークルの中で、17年の間に5人もの幼女が姿を消しているという事実を知ったらあなたはいったいどう思うだろうか」
著者清水潔は文章が巧みだ。「桶川ストーカー殺人事件-遺言」でも感じたが、この本でも現場の砂利や冷たい風が吹きすさぶ描写、そして何よりも事件について語る遺族や目撃者の証言が真に迫ってくる。決して場を盛り上げようとする過剰な修飾はなく簡潔な語り口なのだが、そこには真実を見据えきちんと伝えようとする意志が強く表れている。
同時に、幼い子ども達が犠牲となった事件への、それを引き起こした犯人への強い怒りも。またその怒りは犯人を捕まえなかったどころかあさっての方向へ捜査し冤罪事件を生んだ捜査陣への、そして事件を再捜査するどころか再び隠蔽し、現在進行形で闇に葬ろうとしている捜査当局へ向けられている。
事件はまだ終わってなどいない、終わらせてはならないのだ。
「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と聞いてもピンとこない人はいるかもしれない。実際私はそうだった。だが「足利事件」「管家利和さん冤罪事件」と言われるとああ、あの事件かとなる人は多いのではないだろうか。当時流れていたニュースの一部しか知り得ないが、幼い女の子が犠牲となった殺人事件で犯人は翌年に捕まり、逮捕の決めては当時導入されたばかりのDNA鑑定だったというくらいの記憶はある。冤罪と発覚したのもまたそのDNAで、事件当時はまだ鑑定の精度が低く間違った結果となってしまったのが、17年の歳月を経て再検査で釈放された、と。
無実の人が逮捕拘留されていたという足利事件の概要だけでもとんでもない話なのだが、その冤罪事件の影で実は他の幼女誘拐殺人事件までもが捜査されずに放置されていた事実は、もうとんでもないどころではない。足利事件は単独の事件ではなく、5人もの少女が殺害され消えてしまった「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の一件だったのだから。
真犯人はずっと野放しのまま、それも管家さんが捕まった後で更に事件を起こしている。事件について後から「もし」を想像するのは無意味なことかもしれない、でも私は思わずにはいられない。もし、管家さん逮捕前にもっと目撃証言や他の状況証拠から犯人を特定できていたら。もし、犯人を特定できないまでも管家さんを逮捕することなく「犯人はまだ捕まっていない」状況とし注意喚起ができていたら。少なくとも最後の横山ゆかりちゃん誘拐事件は防ぐことができたのではないか。虚しい想像かもしれない。でもこうした事件で大事なのは数多の「もし」を抱え検討し、二度と同じ過ちをくりかえさないこと、似たような事件が起こることを予防することではないだろうか?
事件から何年が経過しても遺族の気持ちに時効はない。犯人を特定したい捕まえたいという思いももちろんあるだろう。だが何より遺族は真実を知りたいと願っているのではないだろうか。なぜ自分達の幼い娘が狙われたのか、実際何が起こったのか。娘の最後の状況を知るのは辛く苦しいに違いない。それでもなお知りたいのだ。真実を手に入れるために捜査を、犯人の口から聞くために裁判を、そう願い続けている。
話は本書から逸れるが、この真実を知りたいための裁判として私の頭に真っ先に浮かぶのが東日本大震災で亡くなった幼稚園児の両親が園側に起こした「日和幼稚園訴訟」だ。当時幼稚園の災害マニュアルでは、大規模な地震の際は幼稚園で待機するとなっていた。園は津波が押し寄せた地域より高台にあり、そこで待機しておけば誰も亡くならずにすんだはずだった。だがなぜか幼稚園バスは園児を乗せ、あろうことか海側へと向かってしまう。そのバスには海側に自宅がある子供達だけでなく、幼稚園より山側に自宅がある子供達も乗せられていた。そしてバスは海側に住む子供達を降ろし、山側の子供達を乗せたまま更に海側の道を通った時に津波にのみ込まれた。
悲劇はここで終わらない。5人の子供達と運転手がバスごと津波にのみ込まれたが、運転手はドアから自力で脱出し幼稚園に戻って報告していた。つまりここで幼稚園側は津波にのまれたバスの位置と状況を把握できていたのだ。それにも関わらず園は保護者に報告をせずこの事実を隠蔽した。両親達は別の場所を探し続け、子供達は流されたバスの中で懸命に助けを求め続け、夜半地震により発生した火災で命を落とした。その黒こげになった遺体を発見したのも、夜通し必死に捜索し続けていた両親達だった……。
私は遺族の母親の声をニュースで何度も聞いた。
「娘はあのバスに乗るはずじゃなかったんです。なぜマニュアルがあったのに役立たなかったのか、なぜバスが津波にのみ込まれた報告があった時に知らせてくれなかったのか」
母親のなぜに幼稚園はこたえてくれないまま、何度も何度も真実を知りたい要求は無視され、そして遺族は裁判を起こした。真実を知りたい、それに応じてくれるはずの人はいるのに声が届かない。もどかしい思いを叶える手段は裁判しかなかった。
震災当日の映像には、まさにその幼稚園バスが映っているものがある。前述の母親は言う。
「乗っちゃだめって声をかけてしまうんですよ、いつも。映像だから届かないってわかってても、そのバスに乗っちゃだめだって……」
ここにも「もし」を思わずにいられない人がいる。
……話を本書に戻そう。
未解決事件を取り上げる企画から横山ゆかりちゃん誘拐事件を気にとめ、一連の事件を連続誘拐事件ではと気がついた清水潔は、足利事件を徹底的に洗い直し管家さんを釈放するのに一役買った。多くの報道陣がその映像をとらえるため拘置所の前でカメラをかまえていたのだが、なんと著者は管家さんと同じ車の中でカメラを回していた。この一歩も二歩も先を行く著者の行動もなかなか痛快なのだが、それ以上に驚いたのはその直後に続く言葉だ。
「私はそもそも冤罪報道に興味はない。狙いは最初から許し難い犯罪者だ」釈放の喜びに沸き感謝の言葉を述べる管家さんにもこう言い放つ「管家さんが刑務所にいると、どうしても辻褄が合わないんです。私が困るんです。だから排除させていただきました」と。
あれだけ大きくニュースで取り上げられた冤罪事件の解明は主目的ではない、あくまで未解決事件の犯人逮捕しか頭にないと言うのだ。いやはや恐れ入る。だが私は本書のこの部分は著者なりの照れもあるのかなと感じた。確かに本来の目的はそうだっただろう、真犯人を捕まえるためには管家さんが犯人の座にいると邪魔だ。でもそれだけだったならばあれだけ丁寧に検証をするだろうか?菅谷さんとの手紙のやりとりもそうだし、何より管家さん本人が心を開くとは思えない、やはりこの部分は幾分謙遜混じりに思えるのである。
連続幼女誘拐事件の犯人は管家さんではなかった。ではいったい誰なのか?
当時の目撃者が述べている「大股で歩く、すばしっこそうなルパンに似た男」が真犯人ではないのか?
私は著者のミスリードにまんまとのせられていたのだが、当初てっきり真犯人に辿り着いたのはこれら目撃証言を聞いたからだと思っていた。でもそうではない。後半を読んだらわかるのだが、著者はこの目撃者に会う前に既に真犯人の見当をつけている。丹念に事件の資料を集め、読み返し、そしてひっかかる点をとことん調べそしてある人物が浮かび上がったのではないか。
だが、この事件の再捜査は現在もなおなされていない。それはひとえに科捜研が出したDNA型鑑定のせいと思われる。詳しくは本書を読んでほしいが、このDNA型鑑定こそが管家さんから17年という長い年月を奪い、今なお捜査を渋らせている原因なのだ。
科学は進化する、当時は有効ではなかったやり方が確立され精度も増す。だがそれを扱うのはあくまで人間、そこには間違いの可能性もあるだろう。だがその間違いがもし人の人生を、その命を左右するものだったら?一つの間違いを認めることが、芋づる式に他の間違いへと繋がる導火線だったとしたら?人は過ちを素直に認められない時点で、さらなる過ちを犯し続けているのかもしれない。
もしDNA型鑑定という科学捜査さえなければ。その方が誤認逮捕は起こらず、結果として真犯人逮捕に至っていたかもしれない。いや、科学が悪いわけではない。問題はそれを活用する人のほうだ。どんなに素晴らしい鑑定方法でも正しく利用できなければ無意味どころか害悪にしかならない。当時画期的なものだったとしても、そこに綻びがあったのなら修正しなければいけない。
どこかで間違いを認め後戻りできていれば。せめて過去にはできなかったとしても今。それを願わずにはいられない。
「ごめんなさいが言えなくてどうするの」
遺族の母親が検察に投げかけたこの言葉を、もう一度捜査関係者はしっかりと噛み締めてほしいものだ。
【追記】
感想から派生した私のとりとめのない想像は、とるにたらないものものの「ルパンのはなしをしよう」に記載しています。
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