いくつもの週末と本
大好きな作家や本、おすすめの小説の感想などを気ままに書きたい時に書きたいだけ
1月17日のはなしをしよう
阪神大震災で浮かぶ記憶は病院だ。
早朝、気がつくと母がどこかに電話をかけていた。「大きな地震があったって」その時繋がっていた大阪の親戚への電話は、その後すぐ繋がらなくなった。
前夜からの発熱で、私はかかりつけの病院を受診していた。
医師にインフルエンザと診断された私は、待合室にボーッと座っていた。暖かにストーブが燃える室内で、高熱に浮かされながらもどこか冷え冷えとして震えが止まらず、ずっと腕をさすっていた。
私のうつろな目はテレビの画面だけを捉えていた。熱で朦朧としながら働かない頭で、画面の右上に増え続ける数字を。それは初めてリアルタイムで見た、人の死がカウントされゆく数字だった。
実感など湧くはずもない。あちこちで炎を上げる神戸の街並み、倒れた高速道路の橋げた、瓦礫の山、そして千を優に越える数字。
夢みたいだ。
その時も、その後何年も経って神戸を訪れた時にもそう思った。
震災の風景も綺麗に整った街並みもどちらも夢のようだと。
でも、あの時寒々とした病院で刻まれていた無機質な数字こそ、紛れもない現実だった。
どれだけ願っても決して止まることのなかった数字の羅列を、私は決して忘れないと思う。
早朝、気がつくと母がどこかに電話をかけていた。「大きな地震があったって」その時繋がっていた大阪の親戚への電話は、その後すぐ繋がらなくなった。
前夜からの発熱で、私はかかりつけの病院を受診していた。
医師にインフルエンザと診断された私は、待合室にボーッと座っていた。暖かにストーブが燃える室内で、高熱に浮かされながらもどこか冷え冷えとして震えが止まらず、ずっと腕をさすっていた。
私のうつろな目はテレビの画面だけを捉えていた。熱で朦朧としながら働かない頭で、画面の右上に増え続ける数字を。それは初めてリアルタイムで見た、人の死がカウントされゆく数字だった。
実感など湧くはずもない。あちこちで炎を上げる神戸の街並み、倒れた高速道路の橋げた、瓦礫の山、そして千を優に越える数字。
夢みたいだ。
その時も、その後何年も経って神戸を訪れた時にもそう思った。
震災の風景も綺麗に整った街並みもどちらも夢のようだと。
でも、あの時寒々とした病院で刻まれていた無機質な数字こそ、紛れもない現実だった。
どれだけ願っても決して止まることのなかった数字の羅列を、私は決して忘れないと思う。
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『深爪な愛とセックスのはなし』〜日本よこれが赤裸々だ〜
Twitterの深爪さん(@fukazume_taro)の書籍である。
普段140文字である時は爽快な、またある時は思わずニヤリとしてしまうような皮肉と毒舌にまみれたツイートでお馴染みの深爪さんの書籍。
ちょうどタイミングよくKindleを手に入れ、また都合いいことに半額ほどのセールになっていたので嬉々として買ったのだが、私のこの文のように「ちょうど何々だったから」と言い訳や理由をつけないと買いにくいタイトルでもある。
前半は深爪さんのエロ人生とセックスについての話、後半はTwitterで多くのフォロワーを得てなお驀進中の人気ツイッタラーとしての話の二部構成だ。
エロ話については「人の数ほど性に対する考え方感じ方がある」という前提のうえで、ある女性はこうであると語れるのはいいなと思った。男性がオープンに自身の性について、ある時は自慢気にある時は自虐的に語れるのとは違い、女性の、それも特徴的でない普通の人の性はあまり語られることがない。これが「こういう人もいるのだな」という認識で一例として広まってくれたらなという気持ちだ。
なお私は共感できて「そうだそうだ!」という部分と「へえ〜全然違うな」という部分の両面があったので、これを読んだ男性が「こんな女性いるわけがない」も「これが女性なんだ」ともなりませんようにと願うばかりだ。またちょこちょこバブルってこんな感じだったのかな?と彷彿させるエピソードもあり、若干時代も感じた。
そしてTwitterの話である。正直これが読みたくて購入したので、感想としては「おもしろいが全然足りない!」というのが一番だった。特に創作実話が蛇蝎のごとく嫌われるわけなどは読んでいて痛快で、なぜ彼らが嫌いなのかなど、皆なんとなくぼんやりと思っていることの更に先を突き詰め解釈しているのがとてもよかった。
深爪さんが嘘の女子高生の設定だった頃や巨乳自撮り美女だった頃と、現在の素の自分とを比較し「何々ならファボがこの数なのに!」のように憤る姿も笑えてよかった。
ただこのあたりの話は、実際にツイートをしていない人にとっては「ふ〜ん、そんなものかな?」とあまりピンとこないエピソードかもしれない。ある程度の期間ツイートをし、自分のツイートが大量リツイートされたりお気に入りされたり、誰々より私のほうがずっとおもしろいのになぜ向こうの方がフォロワーが多いの?などなど、Twitterで一喜一憂したことのある人にこそおすすめである。
深爪さんという人のどこがいいの?と聞かれたら、それは「赤裸々という魅力」に尽きるのだと思う。
それも赤裸々でありながら計算されている、計算されつつも赤裸々である、そのバランスに惹かれるのだなと。
Twitterでは衝動的に「バカ」や「おっぱい」のように呟く人も多く、なるほど彼らは赤裸々かもしれないが魅力的ではない。同時にその内心を覆い隠し「理解し難い方」「異性の身体」のような表現をすると、それはもう本音とは言えなくなってしまう。
そのちょうど中間の掴みにくく難しいそれを、ひょいひょいっと飛び石を渡るかのごとく軽やかに鮮やかに表現してしまう。それが深爪さんの才能であり、本書の魅力であると思うのだ。
普段140文字である時は爽快な、またある時は思わずニヤリとしてしまうような皮肉と毒舌にまみれたツイートでお馴染みの深爪さんの書籍。
ちょうどタイミングよくKindleを手に入れ、また都合いいことに半額ほどのセールになっていたので嬉々として買ったのだが、私のこの文のように「ちょうど何々だったから」と言い訳や理由をつけないと買いにくいタイトルでもある。
前半は深爪さんのエロ人生とセックスについての話、後半はTwitterで多くのフォロワーを得てなお驀進中の人気ツイッタラーとしての話の二部構成だ。
エロ話については「人の数ほど性に対する考え方感じ方がある」という前提のうえで、ある女性はこうであると語れるのはいいなと思った。男性がオープンに自身の性について、ある時は自慢気にある時は自虐的に語れるのとは違い、女性の、それも特徴的でない普通の人の性はあまり語られることがない。これが「こういう人もいるのだな」という認識で一例として広まってくれたらなという気持ちだ。
なお私は共感できて「そうだそうだ!」という部分と「へえ〜全然違うな」という部分の両面があったので、これを読んだ男性が「こんな女性いるわけがない」も「これが女性なんだ」ともなりませんようにと願うばかりだ。またちょこちょこバブルってこんな感じだったのかな?と彷彿させるエピソードもあり、若干時代も感じた。
そしてTwitterの話である。正直これが読みたくて購入したので、感想としては「おもしろいが全然足りない!」というのが一番だった。特に創作実話が蛇蝎のごとく嫌われるわけなどは読んでいて痛快で、なぜ彼らが嫌いなのかなど、皆なんとなくぼんやりと思っていることの更に先を突き詰め解釈しているのがとてもよかった。
深爪さんが嘘の女子高生の設定だった頃や巨乳自撮り美女だった頃と、現在の素の自分とを比較し「何々ならファボがこの数なのに!」のように憤る姿も笑えてよかった。
ただこのあたりの話は、実際にツイートをしていない人にとっては「ふ〜ん、そんなものかな?」とあまりピンとこないエピソードかもしれない。ある程度の期間ツイートをし、自分のツイートが大量リツイートされたりお気に入りされたり、誰々より私のほうがずっとおもしろいのになぜ向こうの方がフォロワーが多いの?などなど、Twitterで一喜一憂したことのある人にこそおすすめである。
深爪さんという人のどこがいいの?と聞かれたら、それは「赤裸々という魅力」に尽きるのだと思う。
それも赤裸々でありながら計算されている、計算されつつも赤裸々である、そのバランスに惹かれるのだなと。
Twitterでは衝動的に「バカ」や「おっぱい」のように呟く人も多く、なるほど彼らは赤裸々かもしれないが魅力的ではない。同時にその内心を覆い隠し「理解し難い方」「異性の身体」のような表現をすると、それはもう本音とは言えなくなってしまう。
そのちょうど中間の掴みにくく難しいそれを、ひょいひょいっと飛び石を渡るかのごとく軽やかに鮮やかに表現してしまう。それが深爪さんの才能であり、本書の魅力であると思うのだ。
金魚すくいのはなしをしよう
幼い頃、お祭りの金魚すくいが憧れだった。赤くひらひらとヒレや尾をひらめかせながら泳ぐ金魚、ぷっくりと丸くて黒くかわいいデメキン。ひらひらとゆっくり泳ぐ姿はとても美しく小さな私にもたやすくつかまえられそうで、野山を飛ぶちょうちょみたいに惹かれた。
アクアリウムのブームはまだなく、お魚は水族館で見るものだった当時、お祭りの屋台で泳ぐ金魚に私と歳が近い姉は興味津々で、何度も母に金魚すくいがしたいとねだったものだった。
だがいくら母にお願いしても「うちで飼えないからね」と毎回あっさりと却下されてしまった。ダメだと言われるとよけいに金魚すくいへの憧れが募った。
ある年、どうしたことか母が「いいよ」と言ってくれた。無論私と姉は夢中ですくい、我が家に金魚がやってきた。念願の赤くてひらひらな金魚、ぷっくりとかわいいデメキン。
でも楽しい金魚すくいはその年限りで、翌年からは母の断りが「うちではもう飼ってるからね」となっただけだった。
幼い私はとてもがっかりした。でも残念に思いつつもどこかで「金魚をすくいたいだけで育てることに重きを置いてない自分」にも気がついた。
私も姉もただ、お祭りで楽しく金魚すくいがしたいだけだったのだ。
我が家に金魚が来てからは、お祭りで眺めるだけとはまた一味違った金魚とのつきあいとなった。
あたりまえだが金魚は餌を食べる。糞もする。成長もするし体調も悪くなる。鑑賞対象のみではない姿を見、世話をすることで徐々にお祭りで金魚すくいをしたい気持ちは薄れていき、ただ目の前にいる金魚を大切に思うことで満たされるようになった。
金魚が一匹、また一匹死ぬと姉と悲しみ、残された金魚をより大事にするようになった。最後の金魚が亡くなった時には、すっかり金魚すくいへの渇望はなくなっていた。初めて金魚すくいをしたあの夏から9年が経っていた。
アクアリウムのブームはまだなく、お魚は水族館で見るものだった当時、お祭りの屋台で泳ぐ金魚に私と歳が近い姉は興味津々で、何度も母に金魚すくいがしたいとねだったものだった。
だがいくら母にお願いしても「うちで飼えないからね」と毎回あっさりと却下されてしまった。ダメだと言われるとよけいに金魚すくいへの憧れが募った。
ある年、どうしたことか母が「いいよ」と言ってくれた。無論私と姉は夢中ですくい、我が家に金魚がやってきた。念願の赤くてひらひらな金魚、ぷっくりとかわいいデメキン。
でも楽しい金魚すくいはその年限りで、翌年からは母の断りが「うちではもう飼ってるからね」となっただけだった。
幼い私はとてもがっかりした。でも残念に思いつつもどこかで「金魚をすくいたいだけで育てることに重きを置いてない自分」にも気がついた。
私も姉もただ、お祭りで楽しく金魚すくいがしたいだけだったのだ。
我が家に金魚が来てからは、お祭りで眺めるだけとはまた一味違った金魚とのつきあいとなった。
あたりまえだが金魚は餌を食べる。糞もする。成長もするし体調も悪くなる。鑑賞対象のみではない姿を見、世話をすることで徐々にお祭りで金魚すくいをしたい気持ちは薄れていき、ただ目の前にいる金魚を大切に思うことで満たされるようになった。
金魚が一匹、また一匹死ぬと姉と悲しみ、残された金魚をより大事にするようになった。最後の金魚が亡くなった時には、すっかり金魚すくいへの渇望はなくなっていた。初めて金魚すくいをしたあの夏から9年が経っていた。
『白ゆき姫殺人事件』〜イメージと事実と虚像とネットは全てを網羅する〜


何を書いてもネタバレになる話なので、ネタバレしたくない人は本書を読んでからこちらに目を通すことをオススメします。
化粧品会社の美人社員三木典子が、しぐれ谷で殺された。物語は三木典子が教育係だった後輩社員の狩野里沙子をはじめ、被害者に関係する人々のインタビューで綴られる。だがそのインタビューは、被害者の関係者から次第に「容疑者」とされるある女性社員に関連するインタビューとなっていったのだった……。
それほど長い話でもないが、伏線がたくさん張り巡らされている物語。
さらっと短時間で読み終えた後に「あれ?そういえばあそこは」とか「あれはどうだったんだっけ?」ともう一度部分を拾い上げて読み返したくなる、読後の方が時間をとられる話だ。
端的に言うと、これは湊かなえ版『アクロイド殺し』でもある。読者は無意識に、冒頭に出てくる人物=主人公であり犯人ではないと思わせられている。もちろん読み進めるうちに、里沙子は単なる一番目のインタビュイーなだけでヒロインでもストーリーテラーでさえないとわかるのだが、その時には既に遅く植えつけられたイメージはそうそう変わらない。
最後の当事者の章、あそこで容疑者の逮捕状請求と顔写真の公開のニュースを城野美姫が見るシーンが出てきてもなお、私は彼女が犯人というのを疑わなかった。どんでん返しはそこではなく、彼女が捕まり独白をすることで被害者像加害者像がひっくり返る、そういったところにあるのではないか、そんな気がしてしまっていたのだ。
そう、私はどこかでそれを期待していた。
インタビューは途中から客観性を欠き、明らかに城野美姫を容疑者と確定しての「動機探しと加害者像」のようになっていく。それは読んでいて気分が悪いものであったし、普段雑誌やテレビに抱く「ニュースをただ伝えるだけでなく、どうしてここまで加害者被害者についての個人情報を明かすのか?」という気持ちそのものでもあった。ひとたび犯人とされてしまえば卒業写真どころかSNSの記事やメールでさえ晒されてしまう。それだけでなく「この時の書き込みは犯罪と関係あるのではないか?」と邪推までされる。そして一方的に書かれる側には反論の余地はないし、したとしてもメディアほど拡散する術がないのだ。
このインタビュアーについても作者は心憎い伏線を張っている。
同僚へ話を聞く過程でインタビュアーが誰かについて早々に明かされるのだが、そこに“扇情的で嘘ばかりの「週刊太陽」と立場を異とする「週刊英知」の記者”として赤星が紹介されるのだ。それも数年前ネットで話題になった冤罪の対象者である画伯を彷彿とさせる博士という架空の人物のエピソードを介して。
ある子供が殺される事件で誰もが博士を怪しい、犯人ではと思っていた。週刊太陽では博士というあだ名だけでなく扇情的なタイトルをつけ犯人扱いをした。だが週刊英知だけは徹底して博士は犯人ではないと言い続けていたのだ……。これは本当にうまい。このエピソードを語ることにより、フリーライター赤星が「他者の言に左右されることなく自身の真実を追い続ける人物」として認識されてしまうのだ。しかも売れれば誹謗中傷で他者を傷つけてもいいゴシップ誌とは別であると。
実際は文中で赤星こそ週刊太陽の契約記者で、扇情的なあだ名とタイトルをつけ容疑者でもない城野美姫をおもしろおかしく書いた当事者であるとバラされてしまう。ここに、登場人物の中で唯一名前は出るがインタビューはされない赤星のコンプレックスがよく凝縮されている。本当はルポライターになりたかった、他者が流される中自分だけは真実を追いかけることのできる信念を持った記者に。でも現実はゴシップ誌の契約ライターで、週刊英知ではラーメンなどのグルメレポを書くだけ。この物語りに直接は登場しない赤星のキャラの存在で本書はぐっと深みを増していると思う。また関連資料として、赤星のマンマロー(架空のTwitter)のつぶやきを載せているのもリアルだ。人は誰しも表と裏の顔があり、仕事で丁寧に話を聞きながら内面では毒を吐いている。そういったできることなら目を背けたい状況が、赤星のインタビュー・記事・マンマローでのつぶやきといった側面を通して浮かび上がってくる。
三木典子と城野美姫に話を戻そう。
この作品はタイトルや化粧品会社の人気石鹸の名前に「白ゆき」が使われ、被害者の美しさから自然と美貌の白ゆき姫とそれを殺した醜い魔女のイメージとなるようなしかけが随所に散りばめられている。読者は初め、被害者である三木典子を白ゆき姫に重ね容疑者と疑われている城野美姫が魔女と思わせられる。それがあれ?どうも城野美姫こそ白ゆき姫では?三木典子こそが白雪姫をうらやんだ魔女では?と後半それが逆転する。
だがそれもまた錯覚で、城野美姫当人は三木典子について、信じていた人には裏切られ見ず知らずの人達には誹謗中傷を受ける「私も彼女も同じ」と言い放つのだ。白雪姫捜しはイコール魔女捜しでもあり、メディアがともすると「かわいそうな清廉潔白の被害者」と「いじわるで傍若無人な加害者」像に無理やりあてはめようとする様がよく描かれている。
また、主軸となる二人以外の登場人物も「憶測や伝聞をさも事実であるかのように語る人」「事実を話す際に誇張してしまう、いわゆる盛ってしまいがちな人」「保身しか頭になく嘘のストーリーを語るうちにそれを事実と思い込む人」「自分が知っている断片的な欠片をすべてつなぎ合わせ勝手な絵を作ってしまう人」「誰かに感情移入するあまり自身の感情を他者に押しつける人」「正義という名の下に誰かの迷惑となる困った行動をとる人」など、皮肉が到る処に散りばめられていてとても身につまされる。
彼らの愚かさ脆さは私やごく身の回りに存在する人達の脆さでもあり、潜在的だったのがはからずしもネットにより増幅されてしまったということなのだろう。
だがもし彼らがネットと無関係な世界にいたのなら、心の中にある悪意が他者に見える形で表れることもなかったろうにとも思うのだ。卵が先か鶏が先かではないが、ネットがなければ悪意は見えず、悪意がなければネットもまたそれを増幅させることもない。私達にとってネットがもはや日常と切り離せないツールであると同時に、いつ日常を脅かす悪意の塊となるかわからない、そんな怖さをひしひしと感じた。
『世界から猫が消えたなら』~主人公が独身だからこそ成立する寓話~
とても読みやすくあっという間に読了してしまい、若干肩すかしをくらった一冊。
そうか、これがベストセラーなのか、そうか……ううむという印象。
よく本を映画化するにあたり、どこを削るかどのエピソードを残すか制作側は試行錯誤するものだが、この本に至ってはそこは簡単で、逆にどう引き延ばすかを考えそうだなとも思った。
内容はとてもシンプル。進行した脳腫瘍により短い余命を宣告された郵便配達員の主人公。その主人公の前に悪魔が現れ「世界からひとつなにかを消すと寿命が1日のびる」と言う。順々に周囲から物が消え、最後の日に僕はある選択を迫られる……。
主人公の「僕」や描写が終始淡々としているので、劇的な場面や悩み苦しむシーンもどこか水槽を隔てた世界で起こっているように薄く読者側もそれほど葛藤を抱かない。
唯一読みながら私が「あっ」と思ったのは、悪魔が悪魔らしかったあるシーンだった。タイトルと冒頭からネタバレどころかそうなることはわかりきっていたはずなのに、それでも「コーヒーと紅茶どっちがいい?」くらいの気安さで「次は~を消そう」となるセリフの、正確にはそれを悪魔が言うだろうと主人公の僕が予感した瞬間だけはゾワッときた。
何をなくしてもいい、それほど大切な物は世の中にはない。でもその数少ない大切な物をピンポイントで消そうとするところがとても悪魔らしい。かくして主人公の不思議な世界はわずか六日間で幕を閉じる。
シンプルでありがちな設定ゆえにこの本の優れている箇所は「自分になぞらえ誰かと共有する」ことが可能な点にあると思う。
私も読んだ後考えた。最後と言われたら電話したい相手は誰か、観たい映画は何か、私にとってはそれは映画より本の方が近いかもしれない。そして自分にとって猫にあたるものは何か。
できれば主人公に近い設定の、独身で特に世界になにひとつ大切なものがなくパッと思い浮かばない頃に読み、思いを馳せたかった。
結婚し子どもがいる私の寿命は、間違いなく子どもが選択肢となった時点で尽きるもの。それはどの親も同じだろうし、もし主人公が誰かの親であったならそもそもこの物語は成立しなかったろう。
物語を物語たらしめられる、その点で猫というのは絶妙なバランスの存在なのかもしれない。ある人にとっては命にも代えがたく、またある人にとっては微塵も価値のない。
「馬鹿だな」「当然だな」主人公のだした結論への評価が両極端であればあるほど、それは作者の思う壺というところだろう。
そうか、これがベストセラーなのか、そうか……ううむという印象。
よく本を映画化するにあたり、どこを削るかどのエピソードを残すか制作側は試行錯誤するものだが、この本に至ってはそこは簡単で、逆にどう引き延ばすかを考えそうだなとも思った。
内容はとてもシンプル。進行した脳腫瘍により短い余命を宣告された郵便配達員の主人公。その主人公の前に悪魔が現れ「世界からひとつなにかを消すと寿命が1日のびる」と言う。順々に周囲から物が消え、最後の日に僕はある選択を迫られる……。
主人公の「僕」や描写が終始淡々としているので、劇的な場面や悩み苦しむシーンもどこか水槽を隔てた世界で起こっているように薄く読者側もそれほど葛藤を抱かない。
唯一読みながら私が「あっ」と思ったのは、悪魔が悪魔らしかったあるシーンだった。タイトルと冒頭からネタバレどころかそうなることはわかりきっていたはずなのに、それでも「コーヒーと紅茶どっちがいい?」くらいの気安さで「次は~を消そう」となるセリフの、正確にはそれを悪魔が言うだろうと主人公の僕が予感した瞬間だけはゾワッときた。
何をなくしてもいい、それほど大切な物は世の中にはない。でもその数少ない大切な物をピンポイントで消そうとするところがとても悪魔らしい。かくして主人公の不思議な世界はわずか六日間で幕を閉じる。
シンプルでありがちな設定ゆえにこの本の優れている箇所は「自分になぞらえ誰かと共有する」ことが可能な点にあると思う。
私も読んだ後考えた。最後と言われたら電話したい相手は誰か、観たい映画は何か、私にとってはそれは映画より本の方が近いかもしれない。そして自分にとって猫にあたるものは何か。
できれば主人公に近い設定の、独身で特に世界になにひとつ大切なものがなくパッと思い浮かばない頃に読み、思いを馳せたかった。
結婚し子どもがいる私の寿命は、間違いなく子どもが選択肢となった時点で尽きるもの。それはどの親も同じだろうし、もし主人公が誰かの親であったならそもそもこの物語は成立しなかったろう。
物語を物語たらしめられる、その点で猫というのは絶妙なバランスの存在なのかもしれない。ある人にとっては命にも代えがたく、またある人にとっては微塵も価値のない。
「馬鹿だな」「当然だな」主人公のだした結論への評価が両極端であればあるほど、それは作者の思う壺というところだろう。
